身をもって示した処生訓 −昭和五十六年十一月二十二日 倉吉病院追悼会より− 

 理事長が亡くなりましてから、三週間が過ぎようとしています。しかし私には、本当に理事長が亡くなったと言う実感がいたしません。いろいろな人から、おくやみを言われる度に、理事長はもう居ないと言う事が思い起こされて、あまり愉快ではありません。
 しかし、いつまでも気持ちの整理をしないでおくわけにはいきませんので、理事長が最も、愛着をもっていたこの病院の職員全員が集まって、理事長にお別れをするべきと考え、本日お集まり頂いた次第です。
 理事長、病気療養中及び告別式に至るまで、皆様には陰になり、ひなたになり、親身なお世話を頂き、ありがとうございました。まずは亡き父に代わり、心からお礼申し上げます。

 この機会に理事長、闘病生活の一端をご報告して、皆様と共に、理事長のよすがをしのびたいと思います。理事長の病気は、皆様すでに御承知のとおり、肺癌でした。これを発見したのは、全くの偶然でした。昨年の二月、県議会議員選挙のさなか、党院に新しく導入された高圧X線装置の試運転に理事長の胸をかりました。出来上った写真で、右肺上部に鶏のたまご大の陰影を発見した時のショックは、今も忘れられません。このまま放置すればあと一年の命であると診断されました。選挙は無投票になり、連続七期目の当選を果たしました。
 そして四月末、東京の国立癌センター病院に入院いたしました。上京途上の汽車の中で、父が病気になって初めて、親孝行ができると言う複雑な感慨をもったものでした。
 五月末に、吉川英治の主治医でもあった米山部長の執刀により、病巣の切除をいたしました。理事長も、この米山先生には心から、信頼をよせていたようでした。主治医の配慮により、手術の結果、癌ではなかったと告げられて、ことの他、喜こんでいた理事長の姿が思い出されます。
 六月中旬退院し、厚生病院で術後の放射線療法を受けながら、うまくいくかもしれないと、ある程度楽観していました。

 手術で体力を消耗した理事長は、その後、「息切れがする」と言いながら、時折、長椅子に横になって休むようになりました。しかし、仕事を休めるわけもなく、我々も適切な助言をしていなかったように思います。丁度、手術後一年目の今年五月になって、突然のように上半身にむくみが出現、急遽、国立癌センター病院に再入院いたしました。入院直前、上半身のむくみの為、ワイシャツのカラーのボタンが掛けられないまま、福祉会館で、衆参両院選挙の決起集会開会のあいさつをするのを見ましたが、これが理事長の最後の仕事になりました。
 癌センター病院では、癌の再発でありあと一ヵ月の命であると宣告されました。最後を鳥取でにぎやかな中で過ごさせてやりたいと思い、東京から自動車で連れて帰りました。
 呼吸困難であえぐ理事長のそばにいて先に望みのない、こんな試練に一体何の意味があるのかと、神をのろったものでした。
 そのまま、県立中央病院に入院し、放射線療法をするうち、奇跡的に病状が軽快し、九月上旬退院、以後家庭で療養いたしました。あと一ヵ月と言われた命が、五ヶ月も六ヶ月も延びるに従って、我々は、「これは癌ではない。ひょっとしたら勝てるかもしれない。」と考え始めていました。
 そうした矢先の十一月四日未明、心臓の発作で急死いたしました。その日、正五位勲三等瑞宝章の叙勲を受け、十一月八日雨の中、重々しくも盛大な告別式が行なわれた次第です。

 この長い闘病生活を通して、理事長は弱音を吐いたり、とり乱したりした事は一度もありませんでした。そのうえ、自分の病苦に必死に耐えて、看病する我々に、常にやさしく配慮してくれました。この態度が、我々に遺言を残す、いとまもなかった理事長の、身をもって示した遺言だったと思っています。
 あれ程、医師を尊敬し、信頼した理事長に対して、誰も十分に応えてやれなかった事が、なんとも無念でなりません。しかし、数人の病院関係者に身内も及ばない、献身的な看病をして頂いた事には、理事長も心から感謝し満足している事と思います。
 日頃理事長が、「何があっても病院だけは、残して欲しい。」と言うのを何度か耳にした事があります。病院を理事長のかたみと思い、どんな事があってもこれを守り、大切に育てていく覚悟です。皆様のお力添えを頂きたいと思う次第です。
 ここに、つつしんで皆様とともに、理事長のご冥福を祈りたいと存じます。

 追記
 あれから一年と六ヵ月が過ぎ去った五月のある日曜日、晴天の庭でくつろぎながら、まさに香るようなそよ風の中に身を置いて、つくづく生命のよろこびのようなものを感じている。
 まだ、不安多き年代にいる私がそう感じるのだから、あらゆる試練を乗り越えて、安心と自在の境涯に到達した父の無念さは、言うに及ばないであろう。
 背すじをのばして、咳ばらいしながら歩く父、目を細めてはにかむ父、死をさとった父が、ある大臣の見舞いを待ちわびながら、さびしそうにつぶやいたひとこと、今でも鮮明に思い出す。
 人は死をまぬかれることは出来ないが、死ぬ時まで本人も家族も、神の指図と思えない程の苦しみを味わわされる場合は、我々に限らず枚挙にいとまがない。父の闘病の側にいた一年十ヵ月の間、常にこれは何の為の試練なのか、その意味を問いつづけた。そして思い至ったのは、その苦しみは、我々残された者の為にあるのだということである。我々がいかに父の大きな庇護のもとに、ぬくぬくと生きてきたことであろうか。この死の苦しみは実に、我々の甘えを諭す為に父が身をもって示した我々の為の試練でもあった。
 私は仕事柄、多くの人々の死に立ち合ったが、本人そして残された人々に対して、十分な誠意と憐憫を与えたか疑わしい。父の死を体験して、今後は私が受け持つ死に瀕した患者さんに対して、父にそうしたように接したいと願ったものだが、今こうして父と同じ道を歩もうとしている、私も子供達やその他の家族に対して、うち続く試練を乗り越えねばならないきびしい人生の姿を、死の瞬間まで見せてやらねばならないと思っている。父と同じ死を甘受したい気持ちでさえある。
 あの世で同じ苦労話がはずむのである。