「竜とへびとトラ」

 それにしても、いわゆる干支(えと)とは残酷なものである。


 わたしは小さい頃、親から私の干支は竜(たつ)であると教わってきた。これは私にとって、何とも力強く、誇らしいものであった。
 わたしは、自分の干支を聞かれるのを待っていたかのように、「竜です!」と、堂々と旨を張って、答えたものである。


 それだけに、いつの頃からか、昭和十六年生まれの君は、巳年であり、すなわち、蛇(へび)であるといわれた時の悔しさは、容易に想像がつくことであろう。


 私は納得がゆかず、そもそも、この干支という習慣は、中国大陸の古くからの習慣であるから、日本の暦(こよみ)によって判断すべきではなく、中国の暦、すなわち旧暦を使うのが正しいと考えたのである。


 しかし、調査の結果は、私の思惑どおりには行かなかった。;
 旧暦の正月が多少の変化あっても、一月の下旬から、二月の上旬までであることが判明してからは、二月二十四日生まれの私は「たつ」であることを、あきらめざるを得なかったのである。


 とたんに、わたしの中に、竜のような、陽気で、堂々たる風格が消え去り、かわりに、矮小で、陰気な、執念深い少年へと変身してゆくのが手に取るようにわかっていくようであった。


 しかし、そうは言っても、人は自らを完全に否定し去ることは出来ない。
 蛇にだって、周囲を圧倒し、堂々と遊弋する、大蛇もいるではないか。青大将は、落ち着いた風格があって、しかも、あの目は、いかにも優しそうではないか、などと考えて、自らを納得させることに日々を費やしたのである。


 わたしの奥様の干支は「虎」である。


 しかも、それは単なるトラではなく、いわゆる「五黄の虎」であった。


 実際、私は干支に関しては、「竜」と「蛇」にしか感心が無く、その他のことは、詳しく知ってはいなかった。
 しかし、この「五黄の虎」についてだけは、不思議なことに、あの、「亭主を食い殺す」という謂われとともに、いわゆる亭主になる前から、知っていた。
 しかし、私が、彼女の「五黄の虎」を知ったとき、わたしは、すでに四人の子供の父親になっていたのである。


 「始めが肝心」、「終わりよければすべてよし」。ことわざも、謂われも、勝手なものである。


 そして、「五黄の虎」を向こうにまわして生き延びた、わたしの「へび」は、少しずつわたしの自慢に変わりつつある。


 わたしは一度だけ、立派な還暦祝いに参加したことがある。


 赤いちゃんちゃんこを着て、ひろい会場の床の間を背にあぐらをかいて、数々の祝福を受けていた私の父は、少年のわたしにとって、まるで、いくさの途中に立ち寄った武将のように、鷹揚で、闊達にして、力強かった。


 父がどんな気持ちで、還暦祝いを受けたのかはわからない。


 しかし、わたしは還暦祝いなどは、絶対にしないように周囲に断っている。
 その理由は、わたしはいつまでも、あらゆる意味で、人生の現役でいたい。わたしの人生に区切りなど付けて欲しくないと思うからである。


 父が息を引き取る時、父は、あたかも私の到着を待っていたかのように、苦しい息の下から、一瞬、その目を開けて、わたしを見た。そして、目でわたしにうなずいたように見えた。そして、その直後に息絶えた。
 しかし、そのときは、この出来事が、その後、わたしが身に余る重荷を背負うことに繋がってゆくとは知る由もなかったのである。


 ふと、父の干支を調べてみる気なった。父は明治三十七年十一月生、干支は竜である。


 わたしが「たつ」年生まれであることを、ことさら宣伝したのは、実の父ではないかと、今にして思う。自らの後継者として、「辰年生まれ」の私に期待をかけた時期があったのかもしれない。


 干支が六十種類しかないというのは、あの大げさな中国人にしては、たいそうな失敗をするものだと思う。
 六十歳なったら、干支は、もう一度最初から使うのが合理的であると考えた。その理由は、その当時、六十歳以上生きる人は、そう多くはなかったせいであろうかとも思う。


 しかし、いにしえの中国人が、無限に続く干支を作っておいてくれていたら、人間はもっと、しかも自信を持って、長生きできたのではないか、この超高齢者社会を生きながら、いささか残念に思う。


二千一年、人類史上最も輝かしい時代になると期待されている、二十一世紀最初の年が、巳(へび)年とは、わたしにとって、なんと皮肉で、また、なんと晴れがましいことであろうか。