旬刊政経レポート 平成16年1月新年特別号 より

 「今年が、皆様にとっていい年でありますようお祈り致します。」

 しかし、政治に携わるものは、祈っているだけでは存在の意味はない。現状を改善するための処方箋を示すことがその使命であろう。
 そして、それと同時に、あるいはそれとは別に、多くの人たちに「夢と希望」を与えるべき存在でもある。
 そのためには、常に、自らが何かに「挑戦」し続けていることが必要だと思う。その姿勢こそが、周囲に「夢と希望」を与えるからだ。
 しかし、最近、社会に見られる事態は、時代の大きな転換点を示すかのように混沌として見える。だが、実際は、社会の根本を揺るがすようなものは何もないのかもしれないだけに、やっかいでもある。慌てふためくと、大きな失敗を重ねる可能性があるからだ。

 経済について

 現在、日本逼塞の原因は、ひとえに「少子・高齢社会」と「世界単一市場経済化」そして「コンピューター社会」がもたらしたものと言っていい。
 そして、この状況の中で、景気の飛躍的な回復は無いというのが私の基本的な考えである。単純にいえば、高齢者が多く、若者が少なく、人口が減少傾向にある社会では需要が飛躍的に上昇することがないからだ。


 しかし、この状況の中で、需要を回復する方法がいくつかある。それは、一つには、アメリカのように移民を自由に受け入れる社会を目指すこと。今ひとつは、アジア、アフリカなど未開発国の生活レベルをあげることによってもたらされるものである。
 このことからすると、いたずらに北朝鮮の驚異をあおって、軍事費に過大の費用を振り向けることは正しくはない。


 ただし、現状についていえば、支出の半分しか収入のない国家財政はとっくの昔に破綻している。
 これに対して、打つ手は全く存在していない。下手に動けば傷を深くするだけだろう。企業は、生き残りをかけてリストラをする。国家は国民を「リストラ」することができない。
 だからこそ、国家の主要な仕事は、失業対策、年金、医療、福祉など、いわゆる「社会保障」なのである。したがって、ここがしっかりしていれば、一応国家としての形をなしているということができる。


 本題に戻る。
 現状でできることは、今の経済状態を、「常態」と考えて、生活習慣を変えることだろう。生活の「豊かさ」の指標を変えることである。
 いくつかの自治体で、給与カットが行われているが、官・民、国・地方を問わず、全国的に給与を抑えて、ワークシェアリングのもとに、日本的慣行である終身雇用を安易に捨てるべきではない。その意味で、鳥取県版ニューディール政策は正しい。


 責任と勇気と誇り

 第二次大戦後、日本は世界に類を見ない驚異的な経済発展を遂げた。
 それには、日本人の知識水準の高さと、責任感が強く、几帳面で、誇り高きその性格が大いに寄与したことだろう。
 しかし、一方で、年月の経過とともに、もっと大切なものを失ったような気がする。それは、当時からいわれていたように、日米安全保障条約がもたらしたものかもしれない。
 この条約が、日本人をある意味で、スポイルし、「責任と勇気と誇り」を奪っていった一つの要因であったように、わたしには思える。
 首相が靖国神社を訪れるたびに、当時日本の侵略を受けた国々の神経を逆なですることが続いている。戦犯合祀が問題だという。
 それでは、問う。三百万人の戦死者を出し、世界で最初にして最後の原子爆弾の被爆国にした責任はいったい誰がとったというのだろうか。
 この点を、曖昧にしてきたことが、今日の日本の混沌を引き出したのではないか。子供たちが、いじめを苦にして自殺するたびに、やり場のない怒りがこみ上げてくる。
 いじめるがわをふくめてそこに、「責任や勇気や誇り」を、まったく感じ取れないからだ。


 日本は、近代戦争において、白人社会と真っ向から対立し、そして、破れた。その点では、後にも先にも、世界で唯一の有色人国家である。この点、ひとかけらの誇りがないわけではない。
 その意味で、日本はもう戦争は卒業したとすべきでしょう。だからこそ、世界に範たる、日本国憲法を基本的には守るべきだと思う。


 イラク問題と日本国憲法について

 日本は、経済のみならず、イラク問題でも袋小路に入ってしまった。今は、意地になって慌てることが、もっとも危険なことだと思う。


 本来、ほかにまったく条件がなければ、大使館員二人が殺害されたとき、日本は、イラクの日本大使館を引き払う決定をしていただろう。


 最近、自民党も民主党も、あたかも新たな命題のように、国のあり方を問うことが多くなった。
 しかし、何のことはない、それが明確に記載されているのが、日本国憲法なのだ。
 日本は、戦後、この憲法によって、経済発展や、国際協力において、多大な成果を上げてきた。
 最近、中国が政治、経済の両面において、急速に台頭しているが、その国力からすれば当然のことで、まさしく時間の問題であった。
 その渦中にあって、日本の進むべき道は、中国と覇を競うのではなく、この憲法が指し示した方向の延長線上にあるとすべきだろう。
 よく、国連決議が最優先するような主張がもっともらしくなされる。それには、ほかに方法がない現状では、ある種の正当性はあるが、独立国にとっては、憲法がなににもまして優先するのが当然ではないかと思う。
 本当に国連が民主的に運営されているなら別だが、第二次大戦のいわゆる「戦勝五カ国」が拒否権を持ったままの封建的な組織が是正されない限り、私は国連に過剰な期待を寄せることはない。
 日本国憲法の趣旨に添って行動するのが正しいと思う。
 憲法改正については、一度、国民投票をやってみるがいい。国民が憲法を知るいい機会になるだろう。その結果は決まっている。


 日本における三権分立について

 中学の社会科で、司法、立法、行政の三権が分立しているのが、民主主義だと習った。
 しかし、本当にこれら三権は分立しているのだろうか。
 否、決して分立していない。それは、イギリスから導入した、議会制民主主義といわれる制度が内包している当然の欠陥だと思う。
 立法を構成する議員が、内閣を組織する。その内閣が、行政を支配する。行政の独立はここで、まったく失われてしまうのである。


 明治維新後、西欧から政治体制を学んだ日本は、その結果、国は、議院内閣制を、地方は大統領制を採用した。
 その理由は明らかだ。国は議会が主導権をとるべきだと考えただろうし、地方は、議会に力が不足していると判断しただろう。実に勝手な話だと思う。
 このことは、最初、官選知事から始まったことでも明らかだ。地方議会の権限は、相当程度の制限されている。知事の専決権は無制限である一方、議会の議決権は、大いに制限されている。
 少なくとも議会を招集する権限は知事ではなく、議長に属していなければならないだろう。


 日本の官僚機構が、主体性を失って、その能力が減衰していく原因は、この議会制民主主義にある。


 一方、司法はどうか。憲法九条にしても、民主主義の根幹である選挙区議員定数の判断にしても、憲法に基づいて正確に解釈されたことは一度もないのではないか。
 他方、地方議会は、選挙区定数に関しては条例を厳格に遵守している。
 いったい、法務大臣とは何だろう。指揮権の発動とはいったいなんだろう。超法規的措置を時の総理大臣が決定するのはどういう権限に基づいているのだろうか。


 行政の長たる首相、司法の長たる最高裁判所長官は国民投票にゆだねるべきだと思う。そうでなければ、三権の分立などという言葉は使うべきでないし、法治国家と言うべきではない。


 二大政党制は正しいか

 すったもんだの末、小選挙区制が導入された。昨年10月に行われた総選挙は、この制度下の三度目の選挙であった。
 そして、二大政党制が本格的に導入されると喧伝された。そして、「マニフェスト」とともに、いよいよすばらしい事態が到来するように、国民は期待をふくらませた。
 しかし、これからが本格的な多様性の時代といわれるのに、二大政党制のもとに選択肢は二つに限られるというのはまったく不思議な話ではないか。
 わたしは、二大政党制は正しくないと思う。その理由は、結果的に無責任体制を生むだけだろうと想像するからである。
 失敗すれば変わればいい、あるいは変えればいいと国民も考えるだろう。しかし、その結果は無責任体制を生み、失敗の度に、膨大な失敗が加算されると言うことを知るべきだろう。
 どの政党も、権力を握るために国民に甘いことを言う。その都度、膨大な無駄が堂々とまかり通る。
 小泉内閣に人気があるとすれば、そういう媚びを売ることを捨て去ったからに違いない。しかし、それは、国家が財政的に破綻しているからまかり通るだけのことだろう。


 多様性を犠牲にし、少数意見を無視することの恐ろしさは、十分に認識されるべきだろう。日本はそういう道を一度は通ってきて、大きなきずを負ったのではなかったか。



 市町村合併について

 市町村合併が必要な理由は一様ではない。


 しかし、国が合併を急ぐ理由は、明らかに「財政問題」にある。その意味で、片山知事が指摘するまでもなく「合併特例債」などというのは矛盾の最たるものだ。


 合併問題は、その点でかなり専門的な課題を含んでいるので、住民の恣意的な判断のみに任すのは少なからざる問題がある。


 そして、国の機構改革は一向に進まないのに、地方をしっかり啓蒙もしないでその尻を叩くのは、いかにも、川の工事を、川の上流から始める愚を犯している感がある。


 今、地方は職員給与を削って、雇用の確保に力を注いでいる。この間、国はいったい何をしたのだろうか。国家公務員の給与カットがされたという話も聞かない。
 一方で、耳にするのは、外務省をはじめとする、税金の無駄遣いの話ばかりだ。わたしは、自由民主党に属しているが、これだけ失敗をして、なおかつ自民党が強い理由が、正直わからない。


 今は、われわれは、「合併の実験」をしているようなものだ。ほんとうに合併が必要なものなら、あわてず、何段階にも分けて進めるべきである。合併特例を時限を区切って打ち切るべきではない。
 ともかく、急ぎすぎだと思う。感情的になって、今決めたことにこだわり続けることを避けることがとくに大切だ。



 高速道路について

 そもそも「インフラ」そのものは、人が住むのに必要不可欠なものだ。したがって、インフラ整備を「採算性」と結びつけるのは問題だろう。世界一の自動車を作る日本は、世界一の道路国家であって欲しい。その意味で高速道の無料化は正しい。


 しかし、無い袖は振れぬ。


 国家財政が破綻した現状においては、整備のスピードを落とすことは受け入れなければならないだろう。


 しかし、必要と認めたインフラはいずれ完成することを宣言すべきだ。そして、一方で、その実現に向けてあらゆる方策を探るべきだろう。


 ”株式会社化”が必要なのは、「政治、あるいは国家」そのものではないか。



 日本製ロケットの打ち上げ失敗について

 ロケット打ち上げ失敗。不思議なことが起こるものだ。本来の日本ではないような気がする。
 科学立国・日本では、私どもは、この種の失敗は、想定していない。油断があったとも思わない。


 世界一の自動車を作り、新幹線を作った日本。その昔、世界一の戦闘機、零戦を作ったのではなかったか。ロケットなど、易々と打ち上げる能力を持っていると信じたい。ましてや、有人ロケットではないのだから。


 ロケット打ち上げ失敗の陰に見えるのは、航空機産業の衰退による、基礎技術の欠落である。
 これから、科学立国、技術立国を目指す日本にとって、深刻に考え、早急に手を打つべき分野だと思う。
 日本の技術力を、航空機産業、ロケット産業で、世界に示して欲しい。国民の切なる願いだろう。



 うち続く子供の事件と、介護保険

 子供にまつわる悲惨な事件が続いている。そして、どうしようもないと言うむなしさが漂っている。
 解決策はないだろうか。無いわけはない。原因があれば、解決策はある。


そして、ここに一つのヒントがある。


 三十年前、有吉佐和子の「恍惚の人」が発表された。そして、それから三十年後の平成十一年、いわゆる「介護保険」が成立した。その趣旨は、いわゆる「措置から契約へ」という制度変更が、その中核をなしている。それは、消費者から選ばれる施設へ、そして、それは地域福祉から、在宅福祉へと急速に流れていった。そして、この制度変更によって、いとも簡単に、家族介護にまつわる、自殺、殺人、無理心中、徘徊老人の無惨な交通事故などが、いっきに嘘のように消滅した。これぞ、有吉佐和子さんの、そして、政治の見事な勝利だった。


 今、際限なく起こっている子供の悲惨な事故は、一見手がないように見える。しかし、老人問題を解決した「介護保険」から得るものはないだろうか。


 介護保険は「措置から契約へ」を標榜した。学校教育における「措置」とは何だろう。それは、校区を決めて、ある年齢に達すると強制的に連行される「義務教育制度」そのものではないか。


 そこには、消費者である生徒、両親が教育を自由に選択できる仕組みは存在しない。そして、そこからは、学校教育から、地域教育、そして、家庭教育まできちんと整備される発想は浮かばない。


 「地域教育」は、介護保険における「グループホーム」を想起させる。それは、まさに「寺子屋」だ。
 「家庭教育」は、介護者が出張して、家庭介護を支援するのに似ている。
 現在進行している、構造改革特区制度では、教育関係が目立って多い。変化の兆しが見える。この芽を摘まないようにして欲しい。


 教育資源はもはや十分に用意されている。余分な予算はいらないはずだ。制度の変更だけで対応できる。



 農業について

 日本が、経済復興を成し遂げる、一つの方法として、低開発国を援助して、市場に参加させることだと言った。
 最近、二国間、あるいは多国間で、「自由貿易協定」を結ぶ気運が高まっている。限られた範囲内でも、関税を撤廃して、自由に行き来しようとする試みであり、これもグローバリゼーション、地域経済化の流れをくむものであり、避けれ通れない。


 日中韓の自由貿易協定に期待する声がアジア諸国に多いが、ヨーロッパの経済統合を考えれば、当然のことだろう。その中で、技術立国日本は、いきおい農業に圧力がかかる。 
 先日、中国大陸で、ゴボウ生産に成功した農家の記事を目にしたが、製造業のみならず、農業も世界に飛躍しようとしている。
 日本の先進農業技術も、日本のみならず、世界を救うのだ。求めて戦争などをしている暇はない。平和な世界を作るため、あらゆる努力をすべきだろう。


 日本人の食卓は、世界でも珍しいほど変化が激しい。今や米が主食だという人は少ないだろう。


 日本には世界中の料理が集まっていると言っていい。当然、食材も同様である。しかし、そうは言っても基幹となる食材がある。米、小麦、大豆。そのほかには、畜産物、魚介類だろうか。
 そして、これらは、一定程度の自給率を確保しておくことは当然のことだ。その為には、偏りすぎた、自給率の是正が必要だ。
 百パーセントといわれる米の自給率を、多少犠牲(八十パーセント程度)にしても、その他のものの自給率を最低でも三十パーセントは持つべきだ。これは、途上国の農業指導のためにも必要なことだろう。


 その為に、専業農家を育て、平行して、農地の規模拡大をすべきだ。そして、その為に必要なら、経過措置としても、所得保障など、農業補助をためらうべきではない。


 繰り返しになるが、日本人の食文化の変化に沿って、基幹となる食糧の自給率確保も、その中身は時代とともに変化するだろう。
 農業政策には、格別、機動性が欠けている。株式会社の参入が言われる分野(医療、福祉、教育など)は、すべてその種の弱点を持っている。
 生き残り策は、自らが、株式会社の手法を身につけることだ。



 さきの衆議院選挙について

 「大数原理」という言葉がある。多くの人たちが選んだものは、正しいという意味である。
 その意味で、衆議院第二選挙区で当選した川上君は正しく選ばれたということになる。改めて、その勇気と努力に敬意を表したい。


 しかし、当選直後から、彼の周辺から、いきなり「自民党復帰」が噂されたことは、どうしたことだろう。
 この選挙は、彼にとって、自民党公認候補を向こうに回し、自民党を「離党」して戦った選挙である。川上君を支持した選挙民の意図は何辺にあったであろうか。


 公認のあり方に問題があったという人もいる。自民党内で、予備選挙をやって、公認を決めていれば問題はなかったという人もある。


 しかし、これは、二十五年間、鳥取県に貢献した政治家と、その元秘書の戦いであった。県連としても難しい選択であったに違いない、その取り扱いに苦心したであろうことは容易に想像できる。


 多少、情も絡んだだろう。しかし、上記のいきさつから言っても、手続き上から言っても、「公認」は当を得たものだったと思う。


 しかし、私はここに小選挙区制の弊害を見る。その選挙区から一人しか立候補できないために、熾烈な公認争いが起こる。誰でも、何処でも、自由に立候補できる選挙制度が望ましい。
 常に、新しい、志をもった人材を、政治の場に引き寄せる方法を模索すべき時期だと思う。いつまでも、政治が「三流」であっていいはずはない。


 その後、川上君は無所属議員五名とグループを組んで、その代表に収まっている。
 さっそく「手腕」を発揮しているようだ。しかし、まず、彼にとって必要なのは、選挙民の声を丁寧に聞くことだろう。
 それには多少の時間がかかるに違いない。


 そして、自民党県連は蘇生するか。構造改革が必要だが、蘇生に時間はかからない。




 以上