「いわゆる差別について」 

 日本社会には、差別が充満している。そして、差別は、日本社会の特徴の一つだという感じがする。
 差別は、生きる力を奪いさえする。そこには、言葉では表せない深刻さがある。


 三十年くらい前、「甘えの構造・土居健郎著」が出版された。そして、「甘え」は、日本に特徴的な現象として、日本社会の病理を解き明かしていたのを記憶している。
 その後、子供社会に、「いじめ、不登校」などという現象が、頻繁に登場するようになった。
 わたしは、これを日本社会の変化の兆しと受け取った。
 いじめや差別の被害者が黙っていなくなった証であり、そして、これを社会変化の過渡期の現象と受け取ったのである。
 そこには、被害者と加害者の区別はなくなった。加害者は以前の被害者であり、被害者は以前の加害者であった。


 日本は戦後、アメリカの占領を経て、長い間、民主主義国の一員として過ごしてきた。そして、今や、世界的な民主主義国を自認しているように見えるが、果たしてそうだろうか。
 その昔、「共同社会」と「利益社会」を区別した時代があった。すなわち、感情的に融合する社会と利益的関心に基づいて構成される社会とを区別した。
 単一民族で構成される島国・日本は、何時までも共同社会を卒業できないようだ。そこには、社会の構成員が、それぞれ独立・自立した、本格的な民主主義は、なかなか育たないように思われる。
 そして、何時までも「甘え」から卒業できず、感情的結びつきで構成される社会では、グループや、派閥が誕生し、そこに差別が侵入することは容易に想像できる。


 しかし、日本社会は急速に変わりつつある。法律に基づく国家、健全な利益社会へと変貌を遂げ、差別が意味をなさない社会が、つい、そこまでやって来ているように思う。
 新生日本を期待しながら、その流れを押し返さないことが、政治の義務であり、責任であろう。