「責任を取るということ」

 厳しい日々が続く。


 国民は忍耐強く、「復活のその日」を待っている。しかし、頻繁に世情を騒がす不可解な事件は、その忍耐に限りのあることを知らせているようだ。


 失われた十年といわれる。
 すべては、二十年前の、いわゆる「プラザ合意」にさかのぼる。
 一九八五年、米国レーガン大統領は、財政、貿易における双子の赤字を抱えて苦しんでいた。そして、ニューョークのプラザホテルで七カ国蔵相会議が開かれた。
 そこで合意されたことは、日米貿易不均衡を是正するため、円高に誘導することだった。
 その結果は、たちまちにして、一ドル二百四十円が百二十円となり、いわゆる円高不況に突入していった。
 これに対して取られた対策は、いつものように、低金利政策と公共事業の拡大であった。


 しかし、これによって、見事に不況は克服されたのである。
 ふりかえってみれば、じつは、ここが勝負どころだったと思われる。この時点で、低金利政策、公共事業の拡大を終えるべきだったのである。
 しかし、実際は、低金利および内需拡大政策は放置された。結果は、いわゆる「金余り現象」であった。国民こぞって、土地と株の投機に走ったのである。


 一九九〇年、バブルは崩壊した。
 三重野日銀総裁(平成の鬼平)の金融引き締めが、遅すぎた上に、高金利政策という急ブレーキを踏んだためである。
 そして、金融危機が表面化し、山一証券はじめ、大型倒産が始まった。
 小渕政権は、景気対策のため、低金利政策(ゼロ金利)、公共事業を積極的に実施したが、再度の奇跡は起こらなかった。
 大量の国債を発行した結果、七百兆円の借金を作ったのである。


 二〇〇一年、小泉首相が登場した。
 それ以降、低金利政策の続行と、公共事業の削減の組み合わせが行われている。経済、財政政策としては、きわめて、まれなことである。
 そして、その方針に沿って、道路公団、郵政の民営化、市町村合併、三位一体改革など、次々と、小さな政府を目指して改革が実行されようとしている。
 正しい方向に向かってはいるのだろう。


 しかし、振り返ってみてわかることは、ここに至るまでに、「国民」には、全く、ことの責任は無かったということである。
 したがって、改革に当たって、国民に負担を転嫁することがあってはならない。それが、みずからの手で国家に困難を背負い込んだ、政治家としての責任というものだろう。
 まして、「国民とともに痛みを分かつ」などは、誰も納得しないだろう。


 最近、かくも「責任の所在」を曖昧にした理由は、一体、何に由来するのだろうか。
 その一つの原因は、六十年前の太平洋戦争において、歴史上、初めて経験した敗戦を(しかも、それは、原子爆弾投下という、有無をいわさぬものだった)、きちんと受け止めなかったことによるのだろう。


 アメリカヘの極端な傾倒、近隣諸国への差別意識などは、日本人自身が、いまなお、敗戦の傷を癒しきれず、正しい方向から遠ざかっているように見える。
 負けた相手にへつらい、いじめた相手を軽視する。そんな人を、いったい誰が尊敬するのだろうか。


 いつの時代の、どの指導者も、想像を絶する重い責任を背負っている。
 そして、いわゆる「責任を取るということ」は、過去に向かって、結果を問うことではない。
 問われているのは、未来に向かって、「絶対に失敗をしないという意志」である。そして、われわれは、その指導者の下で、はじめて、将来に明るい展望を持つことだろう。