「急がばまわれ!」

 また、歴史が繰り返されようとしている。しかも、わずか二十年前のことである。

 そして、いままた歴史に学ぶときがやって来た。

 二十年前の超円高を押しつけられた例の「プラザ合意」から景気の低迷、金融緩和、公共事業増発。そして景気回復、バブル突入。金融引き締め、景気の低迷、すなわち「失われた十年」へと続く。そして、実に長期に亘って金融緩和と減税が行われ現在を迎えている。

 ごく単純化すれば不景気とはデフレのことであり、好景気とはインフレでありバブルである。

 それに伴って国家も、個人も、預金や借金が実質的、相対的に増えたり、減ったりする。そして現在、我々は、上記の周期のどの位置にいるのだろうか。

 景気の低迷を脱し、インフレに向かいつつあるとされる。過去、この時点でその操作を誤って二度に亘って転落したことを忘れるべきではない。

 すなわち「金融の引き締め」と「増税路線」である。

 小泉政権は後一年になって、これまでの功績(?)を無にしかねないところに来ている。

 金融の引き締めが囁かれ、医療・福祉ともさらに自己負担を強い、定率減税を廃止する。それぞれ増税と同じ効果を持っている。

 その上、消費税率の引き上げが叫ばれている。そもそも消費税率を引き上げるのなら、社会保障費をそこまで絞り込むことはなかったのではないだろうか。

 何故そんなに急ぐのか。何故そんなに功を焦るのか。いわゆる「総仕上げ」のつもりかも知れない。

 そこに陥穿があることに気がつかないほど衆議院で三分の二をせしめた与党は、というより小泉首相は必要以上にたかぶっているように見える。

 三位一体改革で、地方の話をじっくり聞いたという話は聞かない。医療制度改革で、医療関係者や消費者の意見に照らしたという感じもない。

 小泉首相が一人で決める。誰も文句を言わない。そこには「偉大なるイエスマン」たちがいる。

 急ぎ過ぎる「財政改革」と「構造改革」は失敗をするだろう。デフレ脱却にはきびしい見極めが必要だ。早すぎる対応は失敗のもとであり、遅すぎる程度が正しいのだろう。

 われわれは、長い経済の低迷と大きな借金で、相当に疲れている。そして、構造改革の名の下に次々と弱者が切り捨てられているように感じている。

 国の借金は少ないに越したことはないが、政治の目的はそれだけではない。借金をしても、今必要なものは手当して、整備しなければならない。借金に見合う資産が残れば、それで良しとしなければならない部分もあろう。

 減らすべきは、いわゆる経費の無駄である。しかも、それは政治や官僚組織よりも先に民間に求められるものではない。

 その為に「小さな政府」が必要ならそうするがいい。ただし、「小さな政府」にする前に必要なのは、国の権限を何処に移すかを決めることだろう。

 その為には市町村合併の他に、都道府県再編が必要だろう。これには道州制も含まれる。

 そして、そこに権限と財源を落とし込めばいい。国民へのサービスは削ぎ落とさないで、いわゆる「小さな政府」が実現するだろう。

 文字通りの「小さな政府」には、世界第二の経済大国・日本が収まり切るわけがないのである。

 小泉外交は、靖国問題も含めて大国外交をなぞっているかのように見える。

 そして、その流れの中で憲法改正へと進んでゆく。憲法九条を変えることが主たる目的であるなら、憲法改正の意味は少ないと思う。

 自衛権は、どの国にも潜在的に存在している。そして、日本にとって自衛権以外に必要なものはない。外国に軍隊を送り込んで戦争に参画することは、日本が選ぶべき道ではない。

 日本は六十年前にあらゆる意味で、戦争のすべてを体験した国であることを忘れてはならない。

 世界唯一の被爆国として、軍事に頼らず、世界平和と地球環境保全に貢献する国として、国連常任理事国になるのなら高額な国連分担金の意味は十分にある。

 中国台頭の影におびえて、あわてるのは愚の骨頂だろう。日本人のきめ細かさ、発想の豊かさを越えることは、どの国にとっても容易ではない。

 中国にとって、日本人は大切なパートナーとしてあり続けるだろう。乱暴な外交は、百害有って一利無しである。

 問題の少子対策には限界があるだろう。

 当面、必要な手は打たなければならない。しかし、あらゆる考え得る手を打ったとして、いま急に一組の夫婦が四人も五人も子供を育てはじめるとも思えない。

 しばらくの間、小子高齢社会に慣れた後、人口減少社会に順応することだ。新しい、おおらかな未来が開けてくるだろう。

 それだけに、その責重な子供たちが次々と痛々しい事件に巻き込まれるのは誠に無念なことである。一体どうしたことなのか?精神医療の充実が求められているような気がしてならない。

 日本は決してあきらめることはしない。必ず困難を克服して、世界の先頭を歩き続けることだろう。

 だからこそその立場にふさわしい心構え、すなわち「誇りと責任」が求められている。

 かって、マルコ・ポーロは「東方見聞録」で「黄金の国・ジパング」に触れた。

 そして、その黄金にふさわしいものは、日本には「人」そのものしか見あたらなかったのである。