毎年、成人式に招待をいただき、挨拶の機会を与えられる。
 しかし、成人式の挨拶は、挨拶の中でもっとも苦手なものであり、同時に、最も大切に
しているものである。
 わたしには、これから、社会に独り立ちしようとする人を前にして、こういう気持ちに
なるのは、至極当然のことと思われる。

 昨年の挨拶原稿を作るとき、例のごとく、思案したあげく、思い至ったテーマは、「失わ
れた二十年」であった。丁度、その年が、バブル崩壊から二十年たったときに当たってい
たからである。
 「失われた二十年」という言葉のむなしさと、丁度、その二十年を生ききって、成人式
を迎えた若者の、「夢多き未来」をくらべたときの矛盾と、別の意味での「重い意議」に気
がついたからである。
 今、そのときの原稿は手元にないが、おそらく、こんな話をしたのだと思う。
 「日本の幾多の苦難の歴史の一つに数えられる、この失われた二十年をそっくり生きて
きた皆さんが、これからの日本を再生するのだ」と。

 この度の師走選挙は、何かしら、一般世間との間に、遊離したムードが漂っているよう
にみえた。
 その理由は、ここ二十数年、頑として、変わらない社会の流れは、誰の手によっても変
えられないように感じるからである。
 しかし、そうであるなら、私たちは失望するしかないだろうか、そうは思えない。私は、
高齢化がピークを過ぎる2025年以降に、明るい展望が開けると思っている。
 政治は、それまで、この国を、もたせることであり、焦って、傷を深くすることだけは
避けねばならない。

 日本は、いっとき「坂の上の雲」を目指して、がむしゃらに坂を上っていった。今、頂
きの付近にたどり着いてみたが、突然の視界不良で、動きがとれなくなっている。
 いずれ、一つの頂上に立って、裾野まで見晴らせたとき、日本の将来の真の姿が見える
だろう。「2030年、原発ゼロ」というなら、それも、絶景の一つに違いない。
 そして、そのとき、社会の中心にいるのは、今、成人を迎えたあなたたち、すなわち、「失
われた二十年を生きた人たち」なのである。
 彼らにとって、その時代に生きることに、大きな違和感は存在しないであろう。

「失われた二十年」を生きた人々。